四戒/驚・懼・疑・惑


「驚」
 驚きとは、急に予期しないことが起きて、心が動揺することです。
 物に驚けば、自分の本心を失って、臨機応変の処置を施すことができません。
 どんな場合に遭遇しても常に平常心を失わず、冷静な手段を執ることが肝要です。
 平維盛が、水鳥に驚いて潰走したのは有名な話で、沈着を欠き、冷静を失って負けた好例です。

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 懼は怖れです。
 対峙する相手を恐れると、こちらの心身は萎縮して決して自在の活動をなすことができません。
 明治維新の人傑「勝海舟」は、幼少の頃は非常に臆病で、何とかして大胆になり、世のため人のために働きたいと敢然奮起して、毎夜、丑満の頃を見計らい王子権現に赴いて胆を練ったそうです。
 当時、権現の森は昼でも鬱蒼として暗いのに、まして草木も眠る丑満時では、そのおそろしさは大胆な者でも辟易する位であった。
 まして小胆者であった海舟は、はじめの間は気味の悪い怪声に悄然として身の毛を逆立たせ、真黒い得体の知れない怪物におもわず冷水を浴びたようになりました。
 しかし恐ろしさに耐えて通ううちに、怪声は木々の囁きであり、怪物は立木の影にすぎないことが判りました。
 さらに心境がすすんでからは、木々の囁きは快い天来の音楽に聞こえ、立木の影は辺りの景物に趣を添えるように観ぜられたということです。
 全て『恐ろしさ』は、自身の内で勝手に想像して作っているものでが殆どです。
 恐れて驚くと、はなはだしい時は精神の働きが鈍り、身体が震えて、動きを失うことになります。
 これは、恐怖に駆られた瞬間に、逃走と闘争の交感神経が刺激されてアドレナリン、ノルアドレナリンが一気に分泌されて、それ迄、心と身体のバランスを取っていたセロトニンの分泌が、同じく瞬時に止まってしまう為に起こります。

「疑」
 疑は、武道では狐疑心ともいって最も斥くべきこととされています。
 疑いとは、相手を見ていても心が定まらず、心に決断のないことです。
 狐疑心と云う言葉があります。狐疑心とは、狐が逃げのびる時でも必ず後ろを振り返り、猟師がまだ追ってきてないかと疑う状態を示す語です。猟師は、狐が十分に逃げのびているのにちょっと後ろを振り返る癖を知っていて、そこを撃ちます。
 疑うことも、敵を疑っているうちはまだしも、自分自身を疑うようになれば、低迷、ついに自滅するよりほかはありません。
 一度狐疑心が生ずれば、心身の拠り処はありません。
 星一つない暗夜に、荒れ狂う怒涛に翻弄される難破船が最も大切な羅針盤を信ずることができないようなもので、自滅するのが当然です。
 疑って、自分からわざわざ交感神経にスイッチを入れています。心身が固まります。
 勝負は瞬間に決するものですから、攻撃の好機だと感じたならば、その刹那に技が出るようにして、少しでも狐疑逡巡してはいけません。
 真実を掴み、所信に従って、思い切って行動すること、あるいは行動できる心技体を練り上げる稽古せねばなりません。

「惑」
 惑うとは心が迷うことで、精神は昏迷して、敏速な判断や軽快な動作ができません。稽古の中身を体現するなどもっての他。
 惑うとは、事の意外に驚き相手勢に恐れをなし、人を疑い己を疑って、右にしようか左にしようかと進退去就に迷い、正当な判断を決定することのできないことです。
 いたずらに惑っておれば、ついには、自分で相手に自分の首を差し出すことになります。
  
(参考文献:「剣道の習い方」 高野弘正・著 大泉出版・刊 昭和28年12月22日 初版 より改変) 


 また
「法演の四戒」と云う、禅に係る言葉もあります。
 法演は、中国宋代の臨済宗楊岐(ようき)派の僧侶です。
 曰く

一、勢不可使尽
二、福不可受尽
三、規矩不可行尽
四、好語不可説尽


一、勢い使い尽くすべからず。勢い使い尽くさば、禍必ず至る。
 
調子がいい時こそ反省を忘れずに
 勢いにまかせて調子に乗り、周囲の助言も聞かずに突っ走っていると、必ず破局が待っています。武道で云えば、師や先輩に留まらず、弟子、同輩、後輩からの言葉も大切です。
 勢いが要らないと言っている訳ではありません。勢いがなければネガティブな生き方しかできませんから、自分に自信が持てずウツウツと生きていかなければなりません。敵と対峙している状態であれば、敵の勢いに乗ってしまい、自滅します。しかし、勢いがあれば、意欲的・積極的に生きて行けます。問題なのは、その勢いの使い方ですね。
 勢いよく調子に乗り過ぎると、周りが見えなくなります。
 自身の言動も、次第に大雑把になって来ます。
 そこに隙が生じます。
 勢いがあるとき程、正中点に氣を込めて停止し(駐ではなく停)、状況を俯瞰的に観る瞬間を意識する必要があります。

二、福受け尽くすべからず。福受け尽くさば、縁必ず孤なり。
 
欲をかきすぎると人が離れていく
 自己の利ばかりを追求して、相手の幸福を考えないと、周囲の人間から反感を買うことになります。
 皆が苦しんでいる中、自分だけが救われればいい……。灼熱の砂漠で、自分だけが水を飲もうとする……。皆が苦しみを味わっているとき、ごく一部の人だけが救われようとします。そして争いが起こり、その争いは命の取り合いになってしまうこともあります。もし、平等に分け与えることができるならば、争いも命の取り合いも起こらないはずです。
 武道の場では、相手を認める作法と言えるかも知れません。スポーツシーンにあるガッツポーズは、相手を見下し、蔑み、虐げる所行となります。
 武術は、命のやり取りの稽古です。言うならば殺人拳。武道では活人拳にならなければなりません。裏に命のやり取りの稽古がありますが、表は他者(敵)を尊び禮をもって終始します。
 十割の勝ちは不要です。しかし、相手にはっきりと負けを悟らせる事も大事です。
 負けを悟らせねば報復が起きます。かといって十割勝つと、根深い恨みが残ります。
 自利利他です。自利を追うと自利貧になります。そして、「貧すれば鈍する」のです。

三、()()行い尽くすべからず。規矩行い尽くさば、人必ずこれを(はん)とす。
 
規則で縛るのもほどほどに
 何から何まで規則やマニュアルで縛ってしまうと、息苦しく、人は伸び伸び育ちません。また、事細かく指示されると、自分で考え自分で判断しようとする姿勢がなくなってしまいます。 
 車のハンドルやアクセルと同じ。物事には、多少の遊び、余裕が必要です。
 稽古も同じです。人の身体は実に千差万別。親子兄弟であっても、DNAや骨格筋の作りは違います。考え方、性格、成長度合いも違います。
 つまり、同じ内容、仕組みの稽古は、心身のバランスを崩します。
 マニュアルや集団行動は、北朝鮮のマスゲームや軍隊の教育システムだけで結構。あれは、人を統率して没個性化し、早く均等的な行動パターンを仕込む手だてでしかありません。

四、好語説き尽くすべからず。好語説き尽くさば、人必ずこれを(やす)んず。
 
きれい事も言い過ぎると、相手に軽んじられる。
 美辞麗句を使いするぎると、その言葉の価値が薄れて行きます。
 言葉には限界があります。言葉が本当に価値あるものになるには、その人の生き様だったり、行きて来た証しとしての雰囲氣や品格が備わっているものです。としたら、説明のし過ぎも不要となります。別に言えば、体験の無い人にいくら言葉で説明しても、所詮無駄だと云う事。逆に言えば、判らない人に説明すると、その人の範疇で勝手な解釈が起きるから、言わない方がマシなのです。
 人に対した時、「味わいのあるすばらしい言葉も、こと細かく説き明かしてはいけない」のです。
 稽古の場で言えば、その「位」に達していない人にあれこれ説明しても、むしろ混乱するだけ。その「位」に併せて指導し稽古し、「位」の進み具合で教え方や解釈も変えるべきです。



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