「世界武道会議」2016年10月13日 於:ポーランド

発表論文 和文Ver./Published paper, Japanese Ver.

武道としての空手道と道徳

橋 本 政 和           

全日本空手道連盟 和道會 千秋會 四端塾 塾長

世界伝統空手道連盟 顧問

NPO法人 日本健康事業促進協会 理事長


⒈ 人には、共感脳、道徳脳がある

 人間は、他者と意思(情報)の疎通をすることで社会生活を営む。その際に重要な役割を果たすのが、大脳皮質の先端に在る前頭前野である。これは社会脳*1ともいわれる。この社会脳の中枢には、共感脳*2がある。この部分は、人を観察する。そして、「禮節」や「惻隠の情」を発現させる部位である。

 「禮節」は、互いに認め合い敬い合う心から生じ、それを形として表すのが「禮法」である。禮を失するのは、自身の共感脳の機能不全、社会脳の未発達を公表しているようなものであり、恥ずべきことである。

 「惻隠の情」とは、親が子を思う心、無私の情け、相手の心情を深く理解する事を指す。弱者を助ける。子を守る。親孝行をする。傷ついた者を介抱する。溺れる者を、自身の危険を顧みず思わず助けに行く。理屈ではなく、心に深く根ざす人としての心情である。日本ではそれを「仁」と呼ぶ。無償の愛である。

 「禮節」や「惻隠の情」は、人として高度に発達した脳の為す技である。それらを体現できない者は、野生の獣と変わらない。

 また社会脳の腹外側部には、他者に対する「畏怖」の念で賦活される領域があると言う。その働きは、人間の本能(脳幹)に根ざす動物行動を抑制して、「ならぬことはならぬ」という「義(正義)」の心を発現させる。道徳心の発露は、理性に基づくというよりは、他者に対する「畏れ」「恥」の感情が根底にあるのである*3。

 江戸時代の会津藩に伝わった「什の掟*4」でも、そのまとめの一文で「ならぬものはならぬものです」と言っている。理屈は不要。「人として為してはならないことは、理屈抜きに、為してはならない」のである。してはいけないことをするのは、実に恥ずべきことである。

 それはまた逆に、「為したくなくとも為さねばならぬことがある」とも言える。自身に不利になることであっても、正義のため、あるいは恥を濯ぐため、恥を掻かぬために身を挺して戦う。それこそが「義」である。

 これらの「仁」「義」「禮」を持って「智(智識)」を整えるのが人の道であり、「仁義禮智」の四つを人の行動規範の始まりとする。これが四端*5、四つの端緒である。

 而して、これら四端を如何にして自身或いは次代を担う青少年に躾るか?


⒉ 共感脳、道徳脳を作るのはセロトニン

2.1 ワーキング・メモリ

 道徳脳である前頭前野腹外側部にはセロトニン*6が分泌される。脳にセロトニンが欠乏した状態では、道徳脳は機能不全に陥る。つまり、理性的には犯罪は犯してはいけないと認識していても、機能不全の状態では理性を補填する道徳脳が働かないので、犯罪を犯すことに抵抗がなくなる。彼らは、銃の引き金を引くことを躊躇わない。

 逆に正常なセロトニン分泌が為されていれば、人は人を傷つけない*7。セロトニンの分泌は精神の安定を導く。安定した精神に則った道徳脳、共感脳の機能発達は、尊厳と誇りを持った、人たる者の成長を促す。そして、社会全般の発展、国際交流の推進、さらには人の世の調和の構築は、安定し成熟した脳の働きによるものである。

 さて霊長類である人類は、その脳の容量において抜群な発達を見せた生命種である。その脳(前頭連合野)の発達は、三段階を指標とし得る。

 IQ で活動して行く時期→ IQにEQ をプラスして活躍する時期→ IQとEQに更に経験をプラスし人として調和したHQ の時期

へと、人生をより豊かに生きて行く為の「心(精神)×技(技、人生)×体(肉体)」の調和を得ることを目標にする。

 「HQ」は、前頭連合野の持つ人間らしさの知能のことである。あらゆる知能を束ねる統括的な知能と、社会的知能、感情的な知能を併せ持つ前頭連合野は、社会生活を営む上で非常に重要な役割を担っている。この脳領域は、ワーキングメモリという認知機能を担う部分である。ワーキングメモリとは、 必要な情報を「一時的に保持」し「操作する」機能で、計算・判断・推論・思考など様々な高次認知活動の基礎となる。

 空手道における形稽古などの一人稽古は、ワーキングメモリを刺激し、人を人として存在させる高次機能を持つ前頭連合野を発達させる。

2.2 「四  戒」

 「驚 懼 疑 惑」の四つを「四戒*8」と言い、これは武道を志す上で非常に重要な心の持ちようを示したものである。

 一の戒である「驚(驚く)」とは、急に予期しないことが起きて心が動揺すること。物に驚けば、本心を失って、臨機応変の対処ができない。どんな場面に遭遇しても常に平常心を失わないことが肝要となる。急な「驚」は、交感神経を刺激して緊張のホルモンであるエピネフリン、ノルエピネフリンを放出し、心身を安定させているセロトニンの分泌を急阻害してしまう。

 二の戒である「懼(恐れる)」は、対峙する相手を恐れること。甚だしい時は精神も肉体も過緊張して動きが取れなくなる。これは、恐怖に駆られた瞬間に、逃走と闘争の交感神経が刺激されてエピネフリン、ノルエピネフリンが一氣に分泌されて、それ迄、心と身体のバランスを取っていたセロトニンの分泌が瞬時に止まってしまうからである。

 三の戒の「疑(疑う)」は、武道では最も斥くべきこととされる。疑うとは、相手を見ても氣持ちが定まらず、心に決断のない状態である。敵を疑っているうちはまだしも自分自身を疑うようになれば、ついに自滅する。疑心暗鬼は、自分からわざわざ交感神経にスイッチを入れてしまい、心身を固める。瞬時に反応し、無心に動作できる心技体を練り上げるのが、日々の稽古である。

 四の戒の「惑(惑う)」とは心が迷うことで、意識が昏迷して敏速な判断や軽快な動作ができない。稽古の中身を体現するなどもっての他である。事の意外に驚き相手勢に恐れをなし、人を疑い己を疑って、精神は右往左往し、正当な判断をすることはできない。惑い続ければ、ついには相手に自分から己の命を差し出すことになる。

 こうした「四戒」が、如何に我々の人生の方向や自身の発展を阻害していることか。それは歪な社会、歪な国際関係を作り上げる。

 日本には、「腹を据える」「腹を決める」という言い方がある。ここで言う「腹」とは、正中点とも、臍下丹田とも呼ばれる下腹部位である。そこに人のエネルギーの根元を発する場所があると考える。

 西洋医学的に言っても、確かに精神安定と骨格筋の姿勢維持を図るセロトニンの90%は腸で分泌されるし、大腰筋を含む腹部深層筋群が鍛えられなければ体は安定しない。

 脳が緊張して胸式呼吸が過剰になれば、ますます交感神経が賦活し過緊張する。腹式呼吸を意識すれば交感神経の活動は抑制され、緊張が軽減する。緊張のシーンこそ、腹を意識して呼吸しなければならない。

 方向性がはっきりしないならば、「腹を決め」て進むべき方向を決定する。よしんばその方向が間違っていたとしても、「腹を据え」て結果の責任を取る。責任の取り方の最終形が「切腹」である。己の命を賭して責任、名誉を守るのである。

 「心 技 体」を三位一体とするバランスのレベル・アップは、「四戒」をコントロールすることに繋がる。「四戒」のコントロール・スキルの向上は、自身のバック・ボーンとなる。自身のバック・ボーンとは、自身の中にある「腹の決め方」と「腹の据え方」なのであり、武道修行の意味の一つは、その「腹」を鍛えることでもある。

 稽古によるセロトニン分泌の促進は前頭連合野の機能を安定させ、四戒をコントロールする。

2.3 「 仁 義 禮 智 」

 且つまた武道修行は、前述した、人としてあるべき「 仁 義 禮 智 」という四つの基本を備える端初となる。

 「仁」とは、同じ人間として相手を憐れみ悼まずにいられない、人としての本源的な思いやり、慈しみの心である。

 「義」とは、恥ずべき物事を忌避する思いであり、人として本質的に守るべき道である。

 「禮」とは、立派な人や物に対して敬わずにはおれない、また立派な人たろうとして為し続ける態度である。

 「智」とは、物事の真意をはっきりとさせずにはおれない思い、物事の道理を知って判断し、人として向上して行く智慧である。

 これらの概念は、敬神・忠誠・武勇・礼節・名誉を規範とする、西洋における騎士道精神に近いものがある。

 違いは、武士道の根底は「恥を知る」概念だということである。そして武道は、それを体現する修行の継続である。それらを体現するべく為される修行の形態が、武術に人としての徳を重ねてひとつの道たらしめる武道修行である。

 傲らず、しかして誇りを持ち、日々、淡々と自身の昇華を目指すのである。

2.4 「守 破 離」

 そしてこの四端をもって更に「守 破 離*9」へと進む。

 日本において、空手の修行は「稽古」と呼ぶ。「稽」は「稽える」とも読み、「考える」を示す。「古」は「古い」であり、「いにしえ」である。つまり「稽古」とは、「先人の教えを学び、深く考える」ことを示す。また「学 ぶ」は「真似る」を語源と一にするともされる。「先人の教えを真似ることから始め、深く考え、形にしていく」作業が「稽古」である。そして、空手道や武道についている「道」はRoadであり、学びの長い道のりを表すのである。

 第一段階の「守」は「守る」こと。師から受けた教えをその通り忠実に守り、真似て、反復して、基本を正確に身に着けるまでを言う。

 第二段階の「破」は「技を昇華する」こと。師からの教えに自らの経験と研究を重ね、更に自身の個の特性を加えて研究し、最も自分の思想、特性に合ったものに昇華させる。師の教えを自ら意識的に崩し、次第に個性を築き上げて行く段階である。

 第三段階の「離」は「離れる」こと。至芸の段階として、様々なこだわりや固定概念から抜けて自由、自然に行えるようになれば、合理の極致として自ずから至芸の境地に至る、とされる。「離」は言わば理想の段階と考えられるが、多かれ少くなかれ個々が「破」の段階に入って行かなければならないものでもある。ここに至って、一流(一つの流儀)が成立する。

 しかし、ひとつの「守」の中にも「守破離」があり、その「守」の中にも「守破離」がある。「破」の中にも、「離」の中にも、「守破離」はある。

 これは決して、様々な「道」と云う枠に限ったものではない。個体の特性を活かして、個の人生の完成に至る道筋でもある。


⒊ ドーパミン系はスポーツ脳、セロトニン系は武道脳を賦活する

 本来、武道修行に優勝劣敗やそれを計る試合(試合はルールや審判が存在する故にスポーツである)は存在し得ない。個々が、心身充実の状態の確認を他に求めることなく、ひたすら行う淡々たる修行の継続が武道の本質である。

 スポーツ競技の価値観はドーパミン原理で理解できる。

 勝利するために様々な激しいトレーニングを行う。体を酷使し、時間も食事も制限される。それは、名誉や賞金といった「報酬」を手にするためである。ゲームもギャンブルも同じ。もう一回やったら勝つかもしれない。もう一回やったら大金が手に入るかもしれない。次に来るであろう報酬を期待する。それを鼓舞するチア・リーダーは、戦いの興奮、報酬の期待を盛り立てる。

 ドーパミンは、脳に報酬を期待させる。今現在の興奮を追い求める。興奮は、ガッツポーズ、雄叫びに象徴される。そして、勝ったものが正しい。敗者は去っていくに過ぎない存在となる。

 他方、武道や禅の価値観はセロトニン原理に基づく。

 主たる目的は、自身の内面の充実、精神の成長である。心の満足は、生命の存続の心地良さである。勝負に負けることは自己の死につながり、勝つことが求められる。しかしたとえ勝っても敗者への配慮、礼節として「側隠の情」が求められる。そこでは、ガッツポーズや雄叫びは恥ずべき行為とされる。武道にチア・リーダーは不要なのである。

 そのような論理は、欧米式トレーニングでは育まれない。日本では、戦国期から移行し戦のない安定した時代が始まったAD1600年代の江戸時代より実践されてきた、心の安定も含めた身体技法を習得するための武術修行による。例えば弓術や剣術を鍛錬することは、戦のない時代には不要の長物であった。そしてまた、それらの術は戦さ場では鉄砲に取って代わられていた。しかし武術が滅ぶことはなかった。その修行は、人を殺める術としてではなく、人を活かす術、自己研鑽の方法として発展して行ったのである*10。

 戦闘術から武術、さらに武術から昇華した武道は、身体操作法、呼吸法、思考法と相まって、まさしくセロトニン系を鍛錬し、自己成長、社会成長に至る一つの道を示しているのである。

 しかしてまた、正義のない力は暴力であり、力のない正義は無力であることも事実である。ここに「空手に先手なし」の意味がある。剣に言う「鞘の内*11」である。

 であるからこそ、単に勝敗にこだわるドーパミン系の欲求に翻弄されてはいけない。

 もう一回稽古したら、さらに……精神の安定を知ることができるだろう。……技の妙味が理解できるだろう。……身体がより細かく使えるようになるだろう。

 武道は、ドーパミン系を自己成長のために利用するのである。

 生理学の見地からしても、武道修行によって健全なる肉体と健全なる精神の構築と調和がなされる。主として形稽古における呼吸法および反復練習、立ち方や姿勢のコントロールなどは、セロトニンの分泌を促して脳の静謐と精神安定をもたらし(上丹田)、稽古全般に係る技術や人間性の向上と、それらに関わる様々な氣付きは充実感を伴ってドーパミンを分泌してさらなる自己向上を目指す原動力となり(中丹田)、移動稽古による運動と正中点を意識することによるノルエピネフレン分泌は氣力、胆力を養成する(下丹田)のである。

 また脳波でも、動的稽古(フィジカル・トレーニング)時はβ波優勢状態、静的稽古(メンタル・トレーニング)時はα波優勢状態が生じ、交感神経と副交感神経のバランスを整える。

 普段と違う身体動作、普段使わない意識を要する稽古の時間帯は、大脳新皮質の通常運転モードを、稽古集中運転モードに切り替える。ひたすら形稽古をしていると、この集中運転モードのお陰で脳のDefalt Network回路が作動して、脳がメンテナンスされて脳疲労が回復する。

 これらはストレス・コントロールとなり、コルチゾール分泌を抑制する。

 そしてまた、「自由とは互いの自由を束縛しないこと、自分の自由は人の自由によって担保されること、互いの自由は自己の自由の抑制の上に成り立つのである」というJ・H・ミルの「自由論*12」の如く、我を忘れる心身自由の尊重も武道修行の根幹に関わる。これは、人間関係、社会情勢、環境保全など、我々が生きる全てに通じるものである。

 これらは、天皇家の歴史とともに紀元前から二千数百年の間、一度として途切れることなく脈々と続いてきた日本の歴史が物語る、日本人の根元的な倫理観である、神道に言う「天地自然*13」、仏教に言う「自利利他*14」に繋がる。


⒋ 武道としての空手道修行は、人としての全人的な脳形成に繋がる

 相手を必要としない基本稽古、形稽古など、個においては、目の前にいるであろう相手をイメージし、呼吸を整え、四肢の動き、重心をコントロールし、緊張を取り去った肉体と精神の調和を求める空手道の修行は、動く禅である。

 形稽古のリズム運動、呼吸の変化による二酸化炭素濃度の上昇、腹式呼吸と下腹部の締めによる腸管刺激は、セロトニン活性を高め、脳の機能を向上させる。また、過剰なドーパミンやエピネフリンの活性を抑制する。

 集団稽古においては、「社会的な相互作用がもたらす刺激——複雑で、挑戦的で、やりがいがあり、楽しい刺激——によって、ニューロンは特別な発火をし始める(プリンストン大学 脳神経学 E. グールドによるニューロン新生研究 2006年 ネイチャー・ニューロサイエンス誌 掲載)*15」という。

 日本の文部科学省の「中学校学習指導要領解説 保健体育編 武道」の項に、武道教育の目的として、

 武道授業の目的は、「単に試合の勝敗を目指すだけではなく、相手を尊重し、勝敗にかかわらず対戦相手に敬意を払う、 自分で自分を律する克己の心を理解」するものだとしている*16。

 そして道徳とは、「己に内在する利己的、本能的欲求に捉われることなく、人として在るべき選択を試みる*17」ことである。

 青少年期の心身緩やかな時期に、武道を通じた倫理道徳を教育することは、人としての成長を促すのみならず、その人の関係する社会の成長にも繋がって行く。個人は生涯に渡って己を成長させ、その集団における共通意識としての倫理道徳によって社会を形成するのである。そしてその倫理道徳は、人類の共通認識として人種、性差、国境を超越して普遍的に躾けられるもの、躾け得るものだと信じる。

 空手を別の読み方をすると、「空」は"empty"、「手」は"hand"を指し、つまり"unarmed"を意味する。空手道とは、徒手空拳で人の道を求める修行なのである。

 空手道、それを含む日本武道とは、かくも全人的で全社会的な自己統制、自己成長を巡る修行形態を示すのである。

 故にこそ、武道修行とは人を創る最適、最良な方法なのである。そこに、世界共通言語としての“BU-DO”"KARATE-DO"を修行することの重要な意義がある。

 空手道-武道教育によって人を創り、世界を創ることが、“Combative sport”や“Martial arts”ではない、"空手道"であり“武道”の本義である。


[ 注 ]

✽1:1990年にアメリカの生理学者Leslie Brothersがsocial brainという言葉を使用し、社会認知能力に特に重要な部位として扁桃体と眼窩前頭野と側頭葉をあげたのがひとつの転機と考えられる。その後の損傷研究や非侵襲的脳機能画像研究で、扁桃体は情動認知、眼窩前頭野は意思決定、側頭葉下面は相貌認知に重要であることが分かって来た。

✽2:1996年にGiacomo Rizzolattiらによって発見され、ミラーニューロンと言われる。

✽3:菅野覚明(1956年〜。日本の倫理学者、曹洞宗の僧。皇學館大学教授。元東京大学教授。専攻は日本倫理思想史)は「人聞は…(中略)…自然の一部でありますから、自然法則や自然の欲望の支配を受けます…『したいことをする、したくないことをしない」…(中略)…ところが、人間はこうした自然法則や欲望に全く反した行為を、自らの意志で当たり前のように行う存在でもあります。そうして、どんなにしたくとも、すべきでないことはしない…(中略)…という人間特有のあり方が、『義』」であると言っている。

✽4:会津藩士の戒めである。同じ町に住む六歳から九歳までの会津藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくった。この集まりのことを会津藩では「什」と呼び、そのうちの年長者が座長となった。毎日順番に仲間のいずれかの家に集まり、座長が「お話(してはならぬこと)」を一つ一つ皆に申し聞かせた。そして、昨日から今日にかけて「お話」に背いたか否かの反省会を行った。

 一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ  一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ  一、嘘言を言ふことはなりませぬ  一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ  一、弱い者をいぢめてはなりませぬ  一、戸外で物を食べてはなりませぬ  一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ  ならぬことはならぬものです

✽5:中国の儒学者であった孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)が説いた「性善説」の根本思想。

✽6:血管の緊張を調節する物質として発見された。ノルエピネフリンやドーパミンの暴走を抑え、心のバランスを整える作用がある。不足すると精神のバランスが崩れ暴力的になったり、うつ病を発症する。IBS(過敏性腸症候群)などの症状にも関連しているともされており、腸などの消化管の働きに作用していると考えられている。脳内の中枢神経には全体の僅か2%しか無いが、精神安定、姿勢維持などに大きな影響を与えている。

✽7:参考文献:「脳を活性化する」 P. 256 有田秀穂・著 日本武道館・刊

✽8:参考文献:「剣道の習い方」 高野弘正・著 大泉出版・刊

✽9:足利三代将軍義満(在職1368年 - 1394年)時代に「能」を完成させたといわれる観阿彌、世阿彌親子によって開かれた、能の至芸に至る段階を示す。

✽10:1900年代前半にドイツから訪れ日本の大学で哲学史を教えつつ弓道を志し五段を免許されたEugen Herrigel博士は、その著書「弓と禅」で、(日本武術の)本義であった戦国期の闘争術から発展したその(武道)修行はひたすら禅的であり、「幾百年の歳月を乗り越えて、この道の精神はどこまでも同一であった」と述べている。 日本版P. 116

✽11:「鞘の内」とは刀を鞘から抜かずにいる状態のことを指す。しかし、ただ抜いていない状態のことを意味しない。戦う前に、自分が相手より圧倒的に技量が優れていることが相手にもわかれば相手も戦わずに済むのであるから、必ずしも刀を抜いて戦う必要はないという意味である。武力を使う以前に相手に勝つ、相手に認めさせて戦うことなく勝利するという勝ち方は「鞘の内の勝ち」と言われ、武術の理想像の一つであり、居合術の極意とされ、勝ち方のうちの最も優れたものとされている。「鞘の内」が成立するためには自身の力量だけでなく、相手の側にも修練に裏付けられた「実力を見抜く目」が必要になる。そのように両者が対峙するだけで互い相手の実力を認めるという現象は、日本では武術の逸話として数多く伝えられている。

✽12:John Stuart Mill(1806年5月20日 - 1873年5月8日)は、イギリスの哲学者、社会思想家、経済思想家でもあり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。『自由論』は1859年の著書。当時のヨーロッパ、特にイギリスの政治・社会制度の問題を自由の原理から指摘することを試みた。

✽13:宇宙全体を律する原理・法則があるという考え。

✽14:自らの昇華のために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くすことを両立させる。

✽15:参考文献:「脳を鍛えるには運動しかない(原題 SPARK)」 日本版 P.329 Jhon j. Ratey・箸 NHK出版・刊

✽16:「[伝統的な考え方]武道は、単に試合の勝敗を目指すだけではなく、技能の習得などを通して礼法を身に付けるなど人間としての望ましい自己形成を重視するといった考え方があることを理解できるようにする。

 [相手を尊重し、伝統的な行動の仕方を大切にしようとする]伝統的な行動の仕方を所作として単に守るだけではなく、礼に始まり礼に終わるなどの伝統的な行動の仕方を自らの意志で大切にしようとすることを示している。そのため、相手を尊重し、勝敗にかかわらず対戦相手に敬意を払う、 自分で自分を律する克己の心を理解し、取り組めるようにする。」とある。

✽17:「(道徳とは)社会の成員によって承認され、かつ実現される倫理的諸価値ないし規範の総体。その原理は、主観的内面的規制原理として、主体の内に現れる自然的本能、自己保全の欲求、名誉欲、権力欲、所有欲などの利己的、本能的欲求と正義、真理、愛、誠実、信頼、平等、国益などの普遍的ないし社会的諸価値の対立あるいは現実と理想の相克を調整し、社会的成員にふさわしい行為を選択するようにしむける(ものである)」 ブリタニカ国際大百科事典より

英   文  訳:橋 本 磨酉子

イラスト制作:橋 本  龍  男

空手道【四端塾】

全日本空手道連盟 和道會 千秋会 "四端塾" のHPにようこそ。 Welcome to Sensyu-kai "SHITAN-JUKU" (Japan Karate-do Federation WADO-KAI)'s HP. 仁義禮智 是 四端 也

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